相談相手は自分自身

何かに迷ったときは自分の中で考えて答えを出して、関係者に結果を報告する、というのが自分にとって普通だった
相談する場合も、こうしたいけれどどういう方法があるか、という話ばかり
方針は決まっていて、方法だけを決めかねているだけの状態
どんな物事も方針自体を相談することはない

なぜか。それはもう自分と相談して決めているから

だけどそんな風に考えて判断している人が多いわけではないらしい
どおりで「なんで相談もせずに勝手に決めるの!」と叱られることが何度もあったのか…
自分にとってはそのやり方が当然でとても自然すぎて意識していなかったけれど、自分と会話することが日々当然のように行なわれる
読書だって自分とデートしているようなもの

例えば本を開いて文字を追いながら、「私はこう思うな~」とか「私もこれ好きー!」とか反応して、それを受けとめるのは自分一人
自分と会話しながら自分を知ること、それが私にとっての読書
それが読書の楽しいところ
読書で知識が得られたり、経験したように考えられる、というメリットはよく言われているけれど
私にとっては友だちと会話している時間と同じようなものだから、それ自体が趣味である

同じ内容を動画で見ても入ってこないのは、動画だとゆっくり会話している時間がないから
だから動画はその場限りになってしまう
本は自分のペースで進められるし、文字・文章から伝わる温度感しかないから、自分の感情をやたらに揺さぶられない
動画は私にとっては情報量が多すぎる

そんな風にずっと自分のことばかり考えているから、私は自分のことをよく知っていて、自分で判断することができる

他の人から見た私は、自分らしく生きられる人とか、信念があるとか、そんな風に見えるらしい


でも若い頃は迷ってばかりで、誰かの後ろについてばかりで、自分の意思なんてなかった
xxさんの金魚のフン、なんて先生から言われたりもした
思春期になってくらいから、他の人が持っている情報量も多かったし、人付き合いもうまくやっていたから、日々自信がなくなっていった
だから自分の主張もできなくなって、うまくやっていくには周りにあわせるのが一番大事だと思っていた
xxちゃんがこうしたいと言えばそれに従うし、xxちゃんがいなければ幽霊のようにただひっそり時間を過ごしていた

だけど、それがいいとは思っていなくて、こんな悩みがちな自分をどうにか助けてあげたいとは思っていた
ネガティブで暗い歌詞を見るとすごく納得して、自分を客観的に"この子かわいそう"なんて思っていたから

そして大学生で出会った人に「君は自分がなくてつまんない人間だ。会話しててもおもしろくない」と言われて、天地がひっくり返るほど泣いた
その人はいわゆる"自分がある人"で、その人らしさがあったり、信念に従って行動しているのがとってもカッコよかった
私には絶対言えなかった「他の人にどう思われようが、自分がやりたいからやる」なんて言葉が、神様のように思えた
そうは言ってもどうしていいかわからないから、手当たり次第に本を読んだ。手当たり次第にその人を真似てみた
何がいいのか正しいのかわからないけど、認めて欲しくてただがむしゃらになんでもやってみた


自分らしさが分かり始めたのはいつ頃くらいからだろう?
気付くと「あなたは自分を持っている人だね」と言われることが多くなった
前段のように悩んで動けないこともなくなっていった

今は自分が信頼できる
自分を好きでいられる
こんな風に思えることがとても楽でありがたい

一瞬でこんな自分になれたわけではないから、これを伝えていくのは難しいけれど
私の経験で積み上げていったことを共有することで
誰かに寄り添えたり、誰かの力になれると嬉しい
それも私の役割だと思う

続きはまた今度

-自己理解